昭和五十七年八月十六日 朝の御理解
御理解第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
他の神様や仏様は拝まん、もう金光様一本だ。もう、私は合楽一本だ。例えば、言うておってもそれが合楽なら合楽、信じて決まったものでなからなければ駄目です、ね。合楽一本に、絞んなさいと言われたから、絞ったんじゃいけん。合楽を信じて一本に定めさせてもらう、ね。例えば、一人に頼むとその人が、責任を持って世話をしてくれるという意味のところがございますね。問題は神様からお世話をして頂かなきゃいけませんから、神様が面倒見て下さらなければならんのですから。ですから、ただあなた一人にと言うだけじゃいかん。あなたを信じてのあなた一本。あなた慕うという事にならなければ、ね。いわゆる神様が面倒見て下さらない、世話をして下さらない。そこでこの氏子は、どのくらい私を信じておるだろうかと、神様が、もし試されるとするなら、私の言う事を、どれだけ聞いておるかと言う事になると思うですよね。あなたを信じとります。信じとりますと言うても、私の言う事は、ひとっつも聞かんでから、そしてお願いしますばっかり言うたっちゃ、これじゃそんなふうには問屋が卸さんという事になってくるんじゃないでしょうか。私は自分の信心も出来んのに、私共夫婦の事ですけど、とりわけ私は、ここ数年間思います事は、例えば私共は、もう何十年間、布一寸買わんというのが、建前できとりますから、着物を欲しいの、買うのとも思いませんし。それに装飾品など、なおさら、ま、買おうとも身につけようとも思いません。ところがこのごろ、素晴らしい反物やら着物のお供えがくるのは、も、殆ど家内のものばっかりです。もう本当に、驚きです。いやもう、着物だけではありません。それこそ宝石類まで、もうダイヤ、翡翠は勿論の事、もう本当にこの宝石は、もうどこにもないというようなのが集まっておる。しかも指輪なら有輪が、もう家内のに誂えたように、ぴったりしておるという事、家内も言ってます。信心も出けんのに、勿体ない。勿体ない。けれども神様がね。どんなに素晴らしい、例えば着物であろうが、ま、宝石類の、ま、贅沢なものだと思われますけれども、やはり人間氏子を喜ばせたい為、楽しませたいも天地の親神様の願いが、ね。素晴らしい着物でもあり宝石でもあるのですから。
昨日は、富久信会。昨日は、もう本当にこれは、まるっきり全国の県民大会のごたるのと言うて、ま、思い言うた事でしたけれども。九州各県は勿論、東京、大阪、福山、岡山あたりからまでの代表の方が、昨日発表されました。なかに大阪の山田さんが発表しておりましたが、お夢の中に合楽の親先生が、山田三郎と言うのです。三郎さん積木の稽古を、ちっとせなでけんばいち、言わっしゃったお夢ぢゃったげな。どういう事を思いますか、ね。本人が言ってました。いわゆる積木とは、ここでは心と言われるから、自分の心を言うならば、改めるところを本気で改まって、言わばきちっと積むところは積む。延ばすところは延ばさんならんという意味の事だと思いますと発表してましたが、まさしくその通りですけれども、ね。昔の御理解の中に「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という御理解を頂いた事があるんです。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と。桜はあの枝を下ろしますと枝を下ろしたり切ったりするところから枯れていくそうですね。だから桜は、切ってはならないというのです、ね。梅は、もうぼんほら坊主に切る方がいいそうですね。つんだ方が、花もたくさん咲くし、実もたくさんなるんです、ね。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿と、何か私共は、そげなふうに感じておりましたけれども、何かこの合楽の場合なんか、本当にこの桜の花が咲いたような華やかさがありますね。今申しますように私共が、身につけさせて頂くもんでも、もう普通の呉服屋さんぢゃないというような、ま、人間国宝の人が作ったというような、ね。着物とか帯とか、ま、いくらも集まって来ております。とても金で買うなんかでっも買えないようなものが集まってきておる。今言う、家内の場合なんかは、着物。ま、言うなら宝石類までが、しかもいろいろ、も最高の物だと言われるものが、家内の元に集まってくる。だから普通から言うなら、いやあこげな物な、私に勿体ないからと言うて押し返したいような、ま、今までの金光教のイメージから言うとそうですね。何か、質素倹約始末倹約する事が美徳のように言われたり思われたりしてきたんですね。そりゃ勿論、自分の手の届かないところへ、ね。言うなら買う資格も持たないのに借金してまで良いものを買おうとか宝石を買おうという、これはもう言語道断ですね。けれどもね。合楽の場合、それこそ梅の花の、ま、今日もいよいよ、祈願大祭でございますから、ね。華やかは勿論。お祭りになる事だろうと思いますけれども。こげな華やかなお供えは、も、勿体ないからと、どういう事になるでしょう。私は、そういう場合に、ね。も、桜切る馬鹿に絶対にならないと決めております、ね。脇から見たらそれが、贅沢のように見えるかもわかりません。けれども桜の花のような、言うならばおかげです。ならどんなに、なら高価な宝石であってもです。人間氏子を喜ばせたいの、神様の思いがそこに表れておるですから、それを本当に有り難く頂けれる心こそが素晴らしいと思います、ね。そしてここは、いわゆる神様の言う事を聞く。ここは右だの左だの、も、神様任せ。ここは切って落とせよと言われたら、もうこれを切ったら人間、楽しみもなくなるとおもうような事でも、神様がここは切れよ、ここは落とせよと教えられたらそれを本気で切る気になる。そこから今まで、思いもかけなかった芽が出たり花が咲いたり実が実のったりするのです、ね。だから桜の花のいうならば信心。も、自分から求めてのものでなくて神様が下さる物ならば、どういう華やかなおかげでも私は、頂かなければならんと私は思います。それが私は、神様を信じておるから出来ると思います。また神様を信じておるから泣く泣くでも、やっぱ辛抱しなければおられないところは、泣く泣くでも辛抱するのです。この両方が相俟っての修行が出来る時に私は、ね。神様がそれこそ、も、神様のように面倒見の良い方はないと思う。こちらは思いもしない。いわゆる先回りをしておかげを下さるのです、ね。そういうおかげを頂く事の為に私は、ね。私は合楽一本です。も、神様は金光様一本ですと、言うだけではいけんのです、ね。神様が本当に世話をして下さる。面倒を見て下さる為には、私共も又、神様の手にも足にもならせて頂こう、ね。昨日の朝の御理解で、御神前で一三六八と頂いた。そして、これ毎朝、ここで御用日誌ですけれども、参拝のお届け数が毎日、これに書いてありますからそれを見たら私が、頂いた数字の通りのね。千三百六十八であった。も、いやあ、いつもの事ながら恐れ入るなあと思うて、ま、昨日そのことを皆さんに聞いて頂いたんんですけれども。昨日毎朝、吉井の波多野さんが参って見えますが、波多野さんが、親先生私は、今日の御理解を頂いて恐れ入りましたち。今日私が乗って来らせて頂いたバスが一三六八でございましたち。だからそこで、波多野さんどういうわけ、その一三六八と教えて下さるかという事を一つ本気で思う。ただ不思議だなあ、まあ間違いないなあ、事だけではいかんごたるばいと言うて話した事でした。どうでも一三とは、神の願いという事です。神の願い。六という事はお徳という事です、ね。神の願い、神願。昨日、若先生が申しておりましたように、ね。神願成就の為の、ね。信心。それこそ今日の御理解ぢゃないけれども。神の手にも足にもならせて頂こうという時に、神様が私共の手にも足にもなって下さる。面倒見て下さる。たあだ、自分の手に足になって下さいばかり願ってから、神様の言う事はひとつも聞かん、これではね。いかに合楽一本ですと言うてもおかげにならんです。神様を信じて神の言う事を聞くという事は、神様を信じておるから聞けるのです、ね。そういう言うなら、神願成就の為のお役にでも立ちたいという一念を燃やしてお徳を受け、ね。八、言うなら広がりに広がる、そのおかげの中には、ね。梅もあれば桜もありましょうけれども、ね。例えば、こげな贅沢、勿体ないと言うて、それを押し返すような事ではなくて、神様が下さろうとするものならば、それは夏もおこそでである、ね。いらんと思うても、神様が下さるものは有り難く押し頂く頂き方こそ私共は、本当の金光教の信心だと思うのですけれども。金光教の信心の中でも、ね。もうとにかく、も、始末倹約はいいです。有り難いです。私は、あれ、教会のどげな修行しとりますという話を醤油のお供えを頂きますとそれを、二升にしなさるそうです。そして塩水で割んなさるそうです。はあ、も、そうにゃだだがらか醤油ぢゃろうと思うですたいね。そうせんならんような教会ぢゃないんです、ね。神様が喜びなさるでしょうか、ね。私はまあ、それに、ね。ま。それぞれの行き方と言うものがありますけれども金光教の信心の一つのイメージアップの中には、そういうところもあるようですね。教団全体の中にね。金光教の信心は、こう始末倹約。始末倹約は素晴らしい事なんだけれども、ね。それがしみったれたものになったり、神様が下さったものを向こうに押し返すような事になっとるような場合があるのです。それこそ桜切る馬鹿です。桜切る馬鹿になっちゃならん。その変わりに又、梅切らぬ馬鹿とおっしゃるように切らにゃんところは、もう本気で、ね。これを切ったらと思うようなとても切れないような事でも神様が切れとおっしゃったら、切らせて頂く一つの勇猛心がいると思うです。その相俟った信心が出来るという事は、神様を信じるから出来るのです。だから神様を信ずるから、神様もまた信じて、言うならば面倒を見て下さる。世話。今日のこの御理解から言うと、ね。一人に頼めば、その人を信用してあなたにより他に、もう頼む人はありませんと、信用するからその人が心になって面倒見て下さるんです。神様もまたそうだと思うです、ね。おかげを頂いて、ね。それこそ、ま、世界にはどんな贅沢な物でも、立派な物でもございましょうね。そういうような物を例えば、家に備えたり身につけたりする事は、ま、信心ぢゃないといったような思い方を、は、止めなければいけん。そういうものが身につけられるような、言うならばお徳を頂きたい、ね。それに、ま、神願成就の為に言うならば、精進しなきゃ・・精進というか、にもう、没頭する事なんです。例えば私がその事に没頭しておるなら私が、御用のしよいようにしよいように家内が、また私に没頭してくれる。そこに私は最近、不思議に思うほど、ね。家内の身につける着物でも言うなら、宝石類でも、も、本当に必要と思いません。また勿体ないと思いますけれども、それが集まってくるというのは、神様はそういう事を言おうとしておられる。わからせようとしておられるように思います、ね。神様の願いに没頭する程しの、一つ信心を頂きたい。そして合楽一本と決めりゃ、も、これは絶対でしょうね。それこそあなたの手にも足にもならせて下さいという願い。一三六八のおかげを受けられる。神様は不思議な昨日のそういう働きをです。わからして下さるという事は、どうぞ神願、神願成就の為に信心をさしてもろうてお徳を受けてくれて、そして広がりに広がる一三六八のおかげを受けてくれよというのが昨日は、そういう働きが合楽には起こっておったというふうに思われます。だから神様が、も、願うように頼むように、ね。徳を受けてくれよ。昨日富久信会の時でしたか、若先生が話しておりました中に例えば、御理解二節ですかね。信心すれば誰でも御神徳が受けられるとあります。ところが果たして金光様の御信心を頂いて神徳を受けたという人が、何人あるだろうか、ね。それこそ教祖の御教えを、信心すれば誰でもお徳が受けられるぢゃなくて、金光教の信心は誰でもお徳が受けられんという事になっておるのぢゃないだろうかと言うて、ま、話した事でしたが、ね。そのとても私共も思うてました。御神徳を受けるてなんてん事は、も、特別な方達だけのものであるというふうに思うとりましたけれども合楽で、今言われる御理念、ま、最近言われる一切神愛論といったような事が言われます。こういう信心が体得出来て、そういう行き方をなそうと思えば、誰でもなせれるような修行の手だてをもっていうならば、も合楽の場合は、みんな御神徳を受けられる手だてばっかりなんです。それでも言う事、聞かなければ駄目なんです。昨日東京の小西さんが富久信会の時に発表してましたように、ね。例えばこのごろから、病気をして医者にかかった。医者の言われる通りに薬もちゃんと飲むし、こげなもんは食べちゃいかん飲んぢゃいかんと言われる精進もする。だから、この位に親先生の言う事を聞いたらという話をしてました。皆さん、病人が医者の言う事を、言うならば本気で守らして頂くように合楽で、私の言う事を皆さんが、その位な気持ちで言う事を聞く気になったら、ね。誰でもそれこそ、教祖様は嘘をおっしゃってない。信心すれば誰でも御神徳が受けられる。その神徳に寄り添うてくるもの。神徳に伴のうてくるおかげ。ここのところをおかげの遠慮をしてはならない。いやする事はかえって神様に対して御無礼になる、ね。そこには、桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という、この両方の、ね。在り方というものあ、いよいよ出来ていかなければならんと思います。
どうぞ。